理研の産業連携の始まり
「理化学研究所(通称:理研)」の設立は、1913年に高峰譲吉が渋沢栄一に日本の今後の産業の進むべき方向として科学研究所の設立を提唱したことがきっかけでした。
1917年(大正6年)3月20日、渋沢栄一が設立者総代となり、民間の寄付金を中心に当時の皇室・政府からの支援も受けて「財団法人理化学研究所」が創設されました。
高峰譲吉
明治・大正時代に活躍した科学者であり実業家。
タカジアスターゼ、アドレナリンを発明して米国でも商業的に大きな成功を収めた人物で、特許庁が選出した十大発明家の一人。
渋沢栄一
「日本資本主義の父」と呼ばれる実業家。
生涯に約500の企業の育成に係わり、また約600の社会公共事業に指導的役割を果たした人物で、民間外交にも尽力。
そして、理化学研究所の設立目的は次のように定められました。
「理研は、産業の発達に資する為、理化学を研究し、その研究成果の応用を図ることを目的とする」
1921年に大河内正敏が第3代所長に着任すると、 大学ではなかなか難しい「分野を超えた研究交流」を進め、基礎研究だけでなく応用にも結びつく成果を生む研究体制を作り上げました。
理研の研究成果の実用化が進んでくると再び渋沢栄一をはじめ財界人が協力して理研の発明を製品化する会社「理化学興業」が設立されました。理化学興業の活動によって製品化が促進されて理研コンツェルン(理研産業団)と呼ばれる財閥を形成するまでに至り、日本の産業の発展に大きく貢献しました。
大河内正敏
財団法人理化学研究所の三代目所長、工学博士。
広い分野の研究者の自由な研究を支え、研究成果の実用化も推進して理化学研究所の発展に大きく貢献。
理研ヴィタミン
ビタミンAの純度の高い製造方法を開発し、大河内により“理研ヴィタミン”と命名されて1923(大正12)年から販売。一時期は理研の年間研究費の約半分にあたる売上を得て、財団理研の財政を下支えした。
現在の産業連携の体制
理研は設立初期から産業連携を行ってきましたが、現在もその活動は続いています。 2003年に独立行政法人となった理研は企業への技術移転を活発に進めました。現在の国立研究開発法人では産業連携の体制をさらに強化し、 2019年9月には理研の全額出資*を受けて株式会社理研鼎業(りけんていぎょう) が設立されました。理研鼎業は「新たなイノベーションの種を育てる」という役割を引き継ぎ、理研の研究成果の社会的価値を最大限に引き上げ、社会に還元することを目指して活動を行います。
*科学技術・イノベーション創出の活性化に関する法律の定めによる出資です。理研独自の産業連携「バトンゾーン」
理研鼎業の役割に対し、理研は「イノベーションの種を作り続ける」という根幹の研究活動を続けていきます。その中に、理研伝統の「分野を超えた研究交流」の精神を受け継いで発展させた「バトンゾーン」があります。
理研は1980年後半に産学官の壁を越えて卓越した研究人材を集める研究組織「フロンティア研究システム」を立ち上げました。1999年にシステム長に着任した丸山瑛一は自身が経験した企業での研究成果の実用化の経験を踏まえ、理研と企業の“研究交流”から研究成果の実用化につなげる仕組みを検討し、バトンゾーンの着想に至りました。
丸山瑛一
理化学研究所・名誉研究員。工学博士。
東京大学卒業後、日立製作所に入社してテレビ撮像管「サチコン」や携帯電話のディスプレイに使われる「多結晶シリコン薄膜トランジスタ」などを開発。同社基礎研究所の初代所長。1999年から2005年まで理研・フロンティア研究システム長、2005年から2007年まで理研・知的財産戦略センター長。
バトンゾーンは、研究成果の実用化という共通の目標に向かって理研と企業が一定の期間を全力で並走する“場”となるもので、理研と企業が一体となって研究を進めることで社会の持続的な発展に貢献して明るい未来社会の実現を目指します。